インドネシア語を広めた”超”意外な人物

世界最多の島の数、それに伴い言語の数も500以上あるといわれているこの国インドネシアでは、
それぞれの島や地域で別々の言語が話され、その言葉の違いは標準語と関西弁の違いなんてものじゃない。
同じインドネシア人同士でも、別の島の言葉を理解するのは難しいらしく、
その為共通語として誰もが理解できる”インドネシア語”が存在するのだが、
現在のようにテレビ等も無く、(マレー語として存在はしていたものの)あまり使われていなかったらしい。
そのインドネシア語が共通語として広まる経緯において、かつて意外な人物達が携わっていた。
それは日本人、詳しくは太平洋戦争中にこの国に兵役として渡って来た旧日本軍の存在だった。
 
戦前、この国は300年以上にわたりオランダからの支配をうけていた。
そして太平洋戦争が始まり、日本軍がインドネシアに進出した際に、日本とは対立関係にあったオランダをたったの8日間で全面降伏させた。
そこから"インドネシアの独立"の約束を前提に、その後約3年半に渡る日本による占領統治が始まった。
その時に、これまで使用を促されていた「オランダ語と英語」の使用を一切禁止し、
変わりに「日本語とインドネシア語」の教育が取り入れられたという。
後に通訳家となった”彼のおじいさん”はこの時の事を
「日本人はとても厳しかった、日本語の授業で言葉を間違えると竹の棒で口をたたかれた、けれどたくさんの"正しい事"も教えてくれた」と…みんなに話していたらしい。
 
そしてオランダが決して行わなかった軍事訓練も行い、最初は日本軍内の補助兵力「兵補」が養成されたが、
この事が敗戦後に戻って来たオランダとの独立戦争で、非常に大きな力となったらしい。
太平洋戦争では、知っての通り日本を含む連合国軍は戦いに負けてしまったのだが、
全面降伏したその後も、インドネシアに残り、現地人と共に独立戦争に参加した日本人もたくさんいたらしい。
国に帰れない事情や、帰れない心情の人たちも、当時はたくさんいたのだそうだ…。
インドネシア全体はでこの戦争に参加した日本人2000人のうち、1000人はこの地で戦死してしまったらしいが、
彼らは一体どんな気持ちで、故郷を離れたこの国で戦ったのだろうか…。
ここバリにおいても数人の日本人が独立戦争に参加していたらしい。
その時の(日本人兵も含めた)戦死者たちが、マルガ英雄墓地という場所に奉られているらしいので、
また天気の良い日に訪れてみたいと思う。
スンバワで見つけた船
同じくスンバワで見つけた船

コメント

  1. サブロー より:

    いい勉強になるなー。
    これ、今後もよろしく!

  2. MAKI より:

    ほぉぉー!!ナルホド。。。

    私の頭でどれだけ理解できるか微妙だけど、
    頑張って読んでいきます!!

  3. 管理人 より:

    サブロー3/
    はぁい、今後も連載予定です。

    MAKI/
    うん、私も勉強中やけどね…

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