私の中で、特に乗りたいとは思えない乗り物だった。
上の嬢の子育てはバリ島中心だったので、ママチャリとは接する事なくやって来た。
だが日本への帰国が決まった時、下の坊はまだ2歳半…
実家は割と車社会の田舎なのだが、通学(職業訓練校)と保育園の送り迎えを一気に済ませる為、遂にママチャリデビューした。
その時初めて気がついたのは、下手に波に乗るよりもムズイかもしれないという事。
特に前カゴに荷物をいっぱい乗せている時は難易度が上がる。
これが車体が低いタイプか電動のやつならまだマシだったのかもしれないので、今から買う人はご参考までに…
ところで去年の今頃、まだママチャリ歴一年生だった時、湘南移住を機に私のチャリにもサーフボードラックが装備され、更に得体の知れない乗り物となった。
この自転車用のボードラックはバリのバイクにつける様な鉄のゴツイやつでは無くて、最新型の折り畳みも取り外しもワンタッチで出来るタイプなのだが、かなり精密な仕様になっている。それが原因で、今回の落下事件が起こってしまった。
というより、私自身のママチャリレベルの浅さに加え、またボードラックもバリバイクと左右逆な事で、より難易度が増していたと思う。
普段は徒歩で行けるポイントに通っていたのだが、少し波の大きい日に鎌倉方面まで足を伸ばしてみようと、買ってから全く使わないままだったサーフラックをママチャリに付けてみて、いざ海へと向かった。
慎重にバイパスを走っていた所、江の島辺りでラックが車輪止めに引っかかってしまったのだが、気にせずに前へと進んだ。
気温の割にはまだ水温が低く、セミドライを着ていたのがサウナスーツ状態になっていたから、とにかく早く入水したかった。
そのまま進む事数十メートル…江の島の境川を越えたあたりで、サーフボードがゴトンと突然道路に落下してしまった。
よく見るとラックの折りたたみ部分の溝が壊れてカチッとハマらなくなっている。
まだ海に入る前なのに、、
滝汗をかきながら、ただ呆然と立ち尽くしていた所、「大丈夫ですか?」と店から出て来て声をかけてくれた優しいおじさんお兄さんがいた。
「わぁーやっちゃったね」とすぐにお店から店長さんを呼んで来てくれた。
壊れたラックと板を見るなり、店長さんはすぐに本格的な大工道具を持って来てくれ、ボードラックの噛み合わせが曲がった部分の修理を始めてくれたが、どうみても大工さんの手つきにしか見えなかった。
良かった、これで板を置き去りにする事なく家に帰れる…ほっとした。
そして、5センチ程のボードの傷をお兄さんとお姉さんはリペアテープで浸水しない様にと直してくれ、隙間にワックスまで埋めてくれ、板は無事に今日海に入れる状態に!
お陰様でその日のうちに私は鎌倉高校前での初サーフィンをする事が出来た。
波はまぁまぁだった。
私を助けてくれた江の島のサーフショップ↓
こんな誰かの優しさによく出会える街。
自然の中でのんびり暮らしていると、心に余裕が生まれるのだろうか。
地価、物価が高いだけあって、心に余裕がある人達が住んでいるのだろうか…。
そんなアレコレを考えながら一年を過ごし、いつの間にか南国を思い出して嘆く事も減り、昭和感の残る街並みと、都会的な人達との、この微妙なバランスが心地良いと感じる様になっていた。
解体家屋から出た残置物↓フルリペア&塗装しましてん。
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先週末にガスファンヒーターを買った私の勘、相変わらず冴えてます。
ただ、私の気分的には年末辺りから既に寒波入りしてまして…
年末に元々請け会社の倒産があったり、
年始には元請け会社の倒産があったり、
共倒れというやつなんでしょうか…
今年は建設業と運送業の倒産ラッシュが始まるのでは無いかと聞きましたが、大丈夫なのか我が家。
と、近況はド吹雪いていますが、
スンバ島の馬小屋で泣いていた過去と比べればまだまだイケるはず。
今年はどん底からの逆転を目指して行きますので、よろしくお願いします。
本題ですが、
日本に本帰国してから1年半が経ったものの…
この国で生きて行くんだという思いとは裏腹に、私の頭にこびり着いて離れてくれないインドネシアの記憶の断片たち…
冬はその一途な想いが更に強くなってしまいます…
そしてこの”南国に戻りたい病”を患っている、患者達とたまに”バリ島会議”を開く事が、
今や私にとっては必要不可欠な時間となっています。
ここでは、元〇〇中毒患者の会…の様に、自分の状況を人に話し気持ちを吐き出す事や、
それに対して客観的な意見を聞いたり、共感し合ったりする、いわゆるただのお茶会です。
バリ島からの帰国者だったり、インドネシア人の妻(元妻)だったり、そんなただ一つの共通点に過ぎないのだが、
だいたい価値観や悩みの部分が一致しているから、話は尽きることなく続きます。
去年、関東に移住して来てからは度々バリ島会議を兼ねて、このインドネシア料理屋さん”CINTA JAWA CAFE(=チンタ ジャワ カフェ)”へ通っています。
関東エリアに既に数店舗(秋葉原・関内・平塚・大宮)展開中。
ランチなら30分、ディナーなら1時間程度のわずかな時間だけれど、
ここで私たちが味わいたいのは”インドネシア料理”だけではなくて、”インドネシアの空気感”だったりもするんですよね。
お店に入るなり、壁側に積み上げられてまだ片付けられていない段ボール達をよけて椅子に座り、
ほぼ日本語の喋れない店員のおじさんが注文を取りに来てくれたのだが、
もしお客さんがインドネシア語を話せない場合(そのパターンの方が多い気がするが)
このおじさんは大丈夫なんだろうか…と心配になる。
そして、今にも隣の椅子に座ってたばこでも吸い始めそうな距離のつめ方をされ、バリ島の記憶が蘇る。
そんな光景に、もしやここはインドネシアなのかと錯覚しそうになる感じが心地よい。
最近のストレスフルだった出来事や、
朝起きるとワインのボトルが空になっていたという事態(犯人は自分)を受け、
私のこの日のランチは胃にも優しいBubur Ayam(ブブールアヤム=インドネシア風のおかゆ)をチョイス。
インドネシアでは上にUsusu Ayam(ウスス=鶏の腸?)のサテが乗っかってくるが、ここでは鶏皮だった。
私の行きつけだったお店、ヌサドゥアのithonスーパーの前に夕方だけやって来てはすぐに売り切れる、美人のお姉さんが売っているBubur Ayamの事を思い出しながら、インドネシアでの思い出に浸った。
因みにそこに並んでいる客はほぼ男性だった記憶がある。
そして、チンタジャワカフェでのランチを堪能しながら、気が付けば店は一番忙しい正午の時間に差し掛かり、まだ日本に慣れていなさそうな店員のお兄さんはパニックになりそうだったので、手伝いたい気持ちでいっぱいになってしまった。
ひと段落したのを見計らい、この日の食後はKopi(バリコーヒー)とデザートのココナッツぜんざいを頼む事に。
私は、若い店員さんの運んできたコピがあまりにも溢れていた事がツボだったが、
友達は、運ばれてきたデザートに最初からスプーンが刺さっていた事がツボだったらしい。
どちらにせよ、たった1時間の滞在時間で色んなミラクルがおこるインドネシア料理店。
味もさることながら、その空気感が私たちに、
「そんなにちゃんとしなくて良いんだよ」
「頑張らなくてもいいんだよ」
と語りかけてくれている様な気がして、例えお支払い金額がインドネシアの5〜10倍だとしても、多少日によって味が違ったとしても、また来てしまうのだろう。
サービスの裏側にある何か、そのぼやっとした部分に惹かれてしまっている自分がいる事に気が付く。
デザートも食べ終えた所で、最初の店員のおじさんがお皿類を下げにやって来て私たちに話しかけて来た。
何でもそのおじさんは、日本にもう7年間も住んでいるのだと言っていた。
驚いたのは、思っていたよりもだいぶん在住歴が長かった事。
日本に住んだ事も来た事すらも無いビーチボーイ達が日本語をペラペラと話す事を、どう解釈すれば良いのだろうか…
そんな疑問がふと浮かんだインドネシア料理店でのランチタイムで、この日も少し元気を取り戻す事が出来ました。
追記
そういえば、バリ島のハンバーガーはナイフが刺さって出て来るのがミラクルだった
↑こんな海バック、プールバックな日常に、戻りたくなります…
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バリ島で”革製品の制作”をしている友人のポップアップイベントへ行く為、横浜の中華街から程近い”山下町”という場所へ行った。
町の所々に神戸の北野を思い出させる様な雰囲気…というのが第一印象だったけれど、元住人に聞くと治安が良いとは言えないらしい。
でも私はその町の雰囲気を気に入った。
そのたまたま訪れた町で、たまたま入ってみた小さな中華料理屋さんで、たまたまオーダーした”本日のランチ”
私はどちらかというとお任せよりも食べたいものを選ぶタイプなのだけれど、この日は極度の空腹状態だった事と、まだ6月だったというのに外が異様に暑くて思考回路が低下していた事もあり、一番早く出て来そうな”本日のランチ”を選んだ。
そんな私の目の前に突然現れた”麻婆豆腐”こいつに私は心奪われる事になってしまった。
実は麻婆豆腐はそんなに好きな食べ物ではなかった。
だから家で作ることもあまり無かったし、外食で頼むこともほぼ無く、ただ友人が頼んだ麻婆豆腐をつつかせて貰ったり、その程度だった。
頼むと言えばエビチリとか、エビマヨとか、青椒肉絲あたりが定番だった。
だから余計に、この日の空腹を埋める予定だったランチタイムに運命の出会いがあるとは思っても見なかった。
本当に奇跡は突然やってくるものだ。
気がつくと運ばれて来た麻婆豆腐の皿は感動の後味を残しながら空になっていた。
友人のお皿のよだれ鶏のなんとかも既に空になっていた。
その日以来、私は外食で麻婆豆腐がありそうな店へ行く度に、麻婆豆腐をオーダーしてしまう様になった。
そして、その自らのチョイスを後悔してしまう…やっぱり何かが違うと。
それなのに、それでもあの味にたどり着きたいとまた何度も色んな店で麻婆豆腐を頼んでは後悔する…といった繰り返し。
私は完全にあの日の麻婆豆腐に囚われてしまっていた。
そんな日々を繰り返す事半年間、私に遂にその日が訪れた!
横浜へ行くという用事が出来たのだ。
そこで私は帰り道のルートを変更し、山下町を経由する事にした。
夢にまで見そうだった麻婆豆腐!
それを若いお姉さんにオーダーして、ワクワクとドキドキを隠せないでいた所、奥から見覚えのあるおばちゃんが出て来て言った。
「あなた、ここ来るの初めてじゃないねぇ」と。
おばちゃんは、平日の昼間にふらっと来てふらっと去った主婦二人の事を、覚えていてくれた。
しかも、半年も前の事なのに!!
二度目の麻婆豆腐の感動も大きかったけれど、おばちゃんの記憶力にも大いに感動した。
因みに、隣に運ばれてきた子供達用のラーメンも気がつくと空になり、おかわりまで注文する事になった。
そんな、麻婆豆腐に囚われていた話を地元に詳しそうな人にした所「あそこも有名」と教えてくれたのは、
鎌倉”かかん”
こちらはお店の看板メニューが麻婆豆腐という有名店だった。
平日の昼間に店前に並ぶ事30分、冷奴の小鉢と、杏仁豆腐の小鉢が付いて来るだけあって、お豆腐専門店とも呼べそうなほどのクオリティーだった。
山下町、そして鎌倉、
中華の数あるメニューの中でどのメニューもここまでの安定感を出している山下町”旭酒楼”も、
麻婆豆腐に使うには勿体無いと思ってしまいそうなクオリティーのお豆腐で勝負している鎌倉”かかん”も、
どちらもが感動の出会いでした。
お値段はどちらも1200円程でした。
この先もまた麻婆豆腐に囚われて、オーダーをし続けてしまうのか、
それとも麻婆豆腐が食べたい時には思い切って電車を乗り継ぐのか、
また別の何かに心奪われる様な出会いがあるのか分かりませんが、
2023年も小さな幸せを探しながら生きていこうと思っています。
数年間も放置していたブログを再開したにも関わらず、なかなか更新出来ないままでしたが、相変わらず覗いて下さった方々がいて嬉しい限りです。
来年もよろしくお願いします。
良いお年をお迎え下さい♪
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「昨日は疲れすぎて寝れへんかったわ」と車中泊明けのサーフィンの時につぶやいていた。
あの時の私、
「ええ、何で疲れてるのに寝れないんです?逆じゃないですか?」って聞き返してしまってごめんなさい。
そんな私に「うーんとなぁー、年取ったら分かるわぁー」って優しく答えてくれてありがとうございます。笑
つい先月、旦那からも忘れられていた40歳誕生日の日に、
Webスクールで知り合った、一回り以上年下の友達が、関西から遊びに来てくれて、
湘南で何とサーフィンデビューを果たしたんですけど、
学生時代の彼女は陸上一筋で、卒業後もスポーツトレーナー(だっけ?)としてジムで働いていて、
そんな体育会系な彼女(予想通り割とすぐ立ててましたけど、)
サーフレッスン
初めてのサーフィン後に「もう腕が痛くて回らない、あとかなり腰にきますね」っていうのと、
「どうやったらおじいちゃんになってもサーフィンが出来る身体をキープ出来るんですか」って、、
そこにすごい感動していました。
多分日常的に色んな年代の色んな人の身体と向きあっていたから余計、
おじいちゃんでサーフィンを続けている事が衝撃的だったんだと思います。
頭に鳥乗ってる♪
確かに、特に湘南に来てからは元気なおじいちゃんのサーファーを時々見かける。
老けているとかでは無くて、年齢的に本当におじいちゃん。
あんな風になれたら良いなと思うけど、多分ほとんどの人はなれないんだろうねって、
そんな話で盛り上がった。
昔、「疲れすぎて寝れない」と言った先輩の友人は、一年ほど前にヘルニアのうえに脊柱管狭窄症(せきちゅうかんきょうさくしょう)のダブルパンチなんだと、InstaかFBかでレントゲン写真と共にUPしてたのを思い出した。
見つけたのが時間差あり過ぎで、コメント出来ないままだったけど、その時のハッシュタグが確か
#サーフィンしたい
だった気がする。
コメントには、「足腰立てんようになるまでやる」って書いてあって、
それにも感動した。
因みに大先輩はおじいちゃんではなくてまだおじさんです。
その大先輩も、たまに海で見かけるおじいちゃんサーファーも、
きっと海が大好きで、
サーフィンが大好きで、
だからサーフィンが出来る身体をキープ出来ているんだと思います。
それに確かダブルパンチの先輩は、
いまや「ハイキング」という名の山登り?岩登り?を家の近くでしているみたいで、
サーフィンの為のトレーニングなのか、もう一つの趣味なのかはまだ聞いていませんが、
写真を見た感じ、多分山側も本気だと思います(笑)
還暦の時には赤いウェットスーツを後輩たちからプレゼントされていて、
私は還暦ウェットをプレゼントされた人を3名知っているんですけど、
皆年をとっても見た目もずっと若いままでカッコ良い!
きっと陰ではそれなりのハードな努力やストイックな制限なんかもしてるんでしょうけど、
それを見せないところがまた凄いなぁと思います。
今や疲れすぎて寝れない気持ちも余裕で分かり始めた私も、
そんな妄想にふけりながら、
10年以上前の疑問に納得しつつ、
今夜も夜な夜なBLOGを更新しています…
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コロナ以降更新が止まっていましたが、何とかコロナの後遺症も落ち着いて来ました。
ただ髪の毛が抜け続けている様な気はしますが、年のせいもあるが、一日中掃除機をかけまくり対処しています。
若干神経質な私ですが、20代の頃はどちらかというと汚部屋の住人でしたので、今部屋が片付かなくてお悩みの皆様ご安心を…。
何の話や…。
本題ですが、
日本で暮らす旦那が突然倒れ、バリ島に住んでいた私たち(私+娘+息子)が帰国を余儀なくされてから、はや1年半が経っていました。
帰国直後はバリ島に残してきたモノ達(特に思い出)に囚われる日々が続き、それに入退院を繰り返す旦那の今後への不安、自分たちのこれからの不安、色々重なって憂鬱な日々を過ごしていましたが、最近になってようやく”日本が舞台の夢”を見ました。
そうなんです、帰国してから1年以上、私が寝ている時に見る夢の舞台はすべてがバリ島だったんです。
まぁ夢は起きた時には忘れていたりもするのですが、覚えている夢の100%は南国でした。
ビーチで寝転ぶ自分の夢や…
パサール(市場)に買い物に行く夢やら…
透き通る波に乗る夢…
それに、薄暗いチケット屋さんで「私の持っている日本行きの航空券を何とか1週間延ばしてくれないか」と懇願するリアルな夢…
そのチケット屋さんの胡散臭そうなバイトの男子は、奥に座っているボスにその件を相談すると、
更に胡散臭そうなボスは「チップを上乗せしろ」とバイトの子につぶやいていた。
しぶしぶ財布からもう50万ルピア(約5千円)を手探りに数える私、チップとしては決して安くはない…。
そこでようやく目が覚めた。
薄暗いチケット売り場よりは実家の寝室は明るかったが、また”バリに帰りたい…”と思ってしまう。
つわりにの時にSNSに流れてくるご飯の写真が耐え切れなかった時と同様、
やはりInstaに流れてくる南国の写真が切なかった。
私もここにいたハズなのに…
そんな夢を見た日の朝はどんよりした気分だったけれど、昼間は何とか普通に過ごす事が出来た。
ある日、旦那を病院へ送り、待ち時間に市の施設であるボーネルンド(子供の遊び場)&児童館に、3歳児を連れて行ってみた。
辻堂だと確か平日でも1500円/h 程だった気がするけれど、子育て天国明石市では何とタダ/h だった。
入れ替え制で1時間ちょっとの利用が出来る。
その待ち時間に、隣の児童館の方で遊ばせようと中に入った所、
息子は本の置いてあるコーナーに一直線で走って行った。
普段なら、滑り台や車のオモチャへ向かって突進して行くハズなのに、どうしたんやろう…
後を追いかけてみると、息子は大好きな"ノンタン"の本を手にとって嬉しそうにしていた。
「ママこれ読んで」
1ページづつめくり、ゆっくりと声に出して読んではみたものの、もう私の涙腺は限界に達していた。
ノンタンの本は、バリ島でまだ娘が小さい頃に、私の母が日本から送ってくれた本で、
息子が生まれてバリ島に戻ってからは、ほぼ毎日ノンタンの本を読みながら寝かしつけていたのだ。
”あかん、もう無理や”
しかし、児童館で息子を連れて泣いている母…
スタッフさんにもしバレたら、子育てで悩んでいる母だと勘違いされてしまう。
私はただバリ島が恋しくて泣いているだけなのに…
このままでは身の上相談をする羽目になってしまうと思い、必死でこらえた。
後になって思うと、ノンタンの本で号泣するとは、かなり精神的にやられていたと思う。
ただ、スンバ島で過ごした馬小屋で泣いた日々も、後になれば笑い話へと変わったし、
辛い時の経験の方が、後で振り返ると良い思い出になっていたりもするのは経験済み。
だから乗り越えよう、そう思ってWebのスクールへ半年間通った。
慣れないアルファベットだらけの画面は、南国を忘れさせてくれたりもしたし、
その場所で出会った全員が年下というクラスの仲間も、刺激を与えてくれた。
そして、予定外の帰国から1年たった今年の4月、私は地元の関西を離れ湘南へ移住した。
また新しい刺激が始まった。
幸い、海から徒歩3分という好立地で築50年越えの物件を借りる事が出来た。
海辺の暮らしは始まったが、砂が黒い事が気になった。
そして波は割と無い…。
けれど、海へ散歩に行き水平線を眺めていると、心が晴れる。
そして、私はこの場所にバリ島との意外な共通点を発見した。
この場所も、行き当たりばったりではなく、この場所を選んで住んでいる人が大半だという事に気が付いた。
地元の人と、ここが好きで移住してきた人たち…
それが、バリ島に住むバリ人と、バリ島が好きで移住して来た外国人も含む島民以外の人たち…
それと似ている。
自ら選んで住んでいる人たちのエネルギーが集まり、
それがバリ島にいた時と似たような心地良さを作ってくれている様な気がした。
日本に帰国して1年半、
そして湘南に移住して半年間、
この場所で生きて行こうと、そして南国を思い出して泣く事はそろそろ辞めようと決意した。
するとようやく、私の見る夢の舞台が日本にかわったのだ!!
それは成田空港でバリ島行きのチケットを探すという、まだふっきれてはいない感じの夢でもあったが、
とにかく、夢の舞台がバリ島では無くなったという事が、私の中で一歩前進したような気がした。
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どなたかのお役に立てればと…残しておきます。
振り返る事、7月中旬、
エアコンでやられた程度の喉の違和感と咳が出始める。
この時3歳息子も保育園でもらったのか咳をし始めたので、2人で耳鼻科に行き私のみ鼻からブスッタイプの抗原検査をするも陰性でした。
この時息子にも鼻ブスをしたとすると、その後1〜2時間は不機嫌と付き合う羽目になるのは容易に想像出来たので、やめておきました。
「あぁー何かよう分からんけど陰性で良かったわぁ…」と、この時は1か月後の悪夢など想像もしてませんでした。
そして飛ぶ事8月上旬、
相変わらず深夜に咳が出ていたのと、恐らく咳で腰痛が悪化しました。
数日後には実家への帰省も控えていたので、ここで呼吸器内科を受診。
症状を話した感じでは「喘息でしょう」と言われたけれど、病院の方針で診察前に抗原検査をしなければならないとの事…
また鼻からグサッタイプで今度は何と、まさかの陽性が出てしまいました。
前回の陰性から2週間後の事でした…
恐る恐るドクターに聞くと、抗原検査で陽性の場合「ここ数日内に感染した可能性が高いでしょう」との事。
(まだ)良かった。2週間前から私が無症状感染者だったのだとしたら、恐らく家族以外にも感染させてしまっているハズ…
ホッとしたのも束の間、そこから私のコロナ感染者としての生活が始まった。
だがこの時には、時間差で家族が次々に感染し、3週間も家から出られない事態になるとは想像もしていなかった。
一番の不安は、遊び盛りの3歳児と10歳児を家に10日間も閉じ込めなけれなばいけない事だった。
私自身も大して症状もなく、いったい何をして過ごせばいいのだろうか…
幸い週3で在宅勤務をしているので、買い物以外は特に支障もなく、
一方の子供たちは、特に文句も言わずに引きこもっていた。
寧ろ2人とも自宅隔離を楽しそうにしていて、私に文句言われる事無くムービーが見れるのがむしろ嬉しかった様で、流石”引きこもりの血”を引き継いでいるなと実感した。
10日間の隔離は思ったよりも早く明け、ようやく外に出て向かった先は徒歩圏内の海だった。
久々の太陽、風、雲、外の世界ってなんて素晴らしいんだろう!
それに焼き肉って何故こんなに美味しいんだろう!!
しかし2日後…あろうことか、旦那が床に転がり始めた。
どこかで見たことがある光景…そうだ、あの時だ、旦那が急性アル中で倒れたあの日。
詳しくは↓
ところで、旦那は私と出会ってから10年の間に3度も死にかけている。
7年近く別居していたのに3度も死にかけた所を見たのだから、恐らく私の知らないのも合わせるともっとだと思う…
色々と思い出すうちに、あの日の怒りがまた沸々と再燃して来そうになったが、今や旦那は基礎疾患持ちの障がい者…
そもそも、何度も死にかけている背景には、もともとこの基礎疾患が隠れていたのが理由かもしれない。
何はともあれ、旦那を病院のPCRに連れて行こうとしたら、何とうちの駐車場にはその時点では中型トラックしかなかった。
結局旦那の運転で病院に辿りついたが、発熱外来の待合(屋外駐車場の1階)には”ただいま120分待ち”の看板が!!
どこかで見たことがある、そう確か、USJの乗り物の入り口とかにある看板だ…
確かジュラシックパークも120分待ちで諦めたが、この具合の悪そうな旦那は120分待ちにはおそらく耐えられないだろう。
それと、この事は私の脳裏に当分焼き付くたろうと思うのだが、駐車場1階の屋外待合には具合が悪くてうずくまる人や、寝そべっている人、てんやわんやでまさにカオスと呼べるレベル、、
久々に私はインドネシアの病院を思い出してしまった。
スンバ島にもブラックマジック?!【Part1】恐怖のローカル病院 スンバ島移住生活
がしかし、列の最後尾に並び始めた旦那…そこで何とまたしてもびっくりする出来事が起こった。
何と、列の最後尾に並んでいる私たちの所へ、謎のパンフレットを持った金髪でちょっと軽いテイストなお兄さんがやって来た。
「あのー、今日も300人くらいの人が診察に来ると思うんですよー、待つのキツイと思うんで、病院とは別のテントでなら今すぐPCR検査出来ますよ♪」と。
結果が当日分かるやつなら15000円
次の日なら10000円
翌々日のなら5000円
「唾液で簡単に検査出来ますよーっ」
と、どの辺もまるでインドネシア。
結局、そんな甘くも苦い誘惑に負けお願いする事にした。
娘と息子も念のため検査しておきたかったので、旦那は10000円のコースで、子供たちがそれぞれ5000円のコースで無事PCRを終えた。
それでもバリから日本へ帰国した時のPCRよりは、だいぶん安かった。
そして帰宅後…結局その時のPCRの結果を待たずして、旦那の血圧は200以上にまで急上昇し、救急車を呼ばせて貰う事にした…
搬送先がなかなか見つからないとの事だったが、ようやく受け入れ先が見つかった時に救命士さんが「腎不全で透析されてる方で、心不全の疑い」と搬送予定先の病院に告げていた。
え…心不全??
確かに、心電図は不規則な動きをしていた。
その聞きなれない単語を聞き、過去に3度も蘇った旦那も今度こそTHE ENDなのかと色々と頭をよぎって泣けて来た。
だが家には子供が2人もいるし、夜に子供たちだけ置いて出かけるわけにも行かず、
私は一度乗った救急車から降りて子供たちと家に残ったのだが、深夜の2時にまたしても救急車で帰宅した旦那はコロナ陽性と診断されたとの事だった。
そしてあろうことか、その次の日の夕方にはまた普通の人へと戻っていた。
そしてそのまた次の日、2週間前に感染済みだったはずの私も高熱が出始めた…
10日間の隔離が明けた、3日後の事だった。
コロナが再燃したのか、再感染なのか、抗原検査も結局出来ないままだったので詳細は分からないままだった。
2度目の感染(もしくは再燃)だったのに症状は前回よりも酷く、辛かった事しか思い出せないが、今度は私がうなっている横で一昨日救急搬送されたハズの旦那が肉を焼いて食べていたのだけはよく覚えている。
つわりの時に私の真横でバビグリンを食べ始めた時と同じくらいに、腹が立った。
そして、その数日後には娘までもが感染…お盆で病院にも行けなかったが、高熱と頭痛でかなりうなされていて可哀想だった。
娘に関しても、10日後のやっと隔離が明け外出した帰り道、近所のスーパーから「先に帰っとく」と歩きが遅い私と弟の前を歩き始めたのだが、家に辿り着く一歩手前で目眩を起こして倒れ、近所のおばさんに我が家へと運ばれ、水を飲ませて貰っていた所に私が帰宅。
そしてそのまま救急搬送される事となった。
1ヶ月で2度(もしくは3度⁈)コロナに感染してしまい、
1ヵ月で2度も付き添いで救急車に乗ってしまった。
その度に対応して下さった医療従事者の方には、本当に感謝しかない。
そして、旦那が救急車に乗った時の対応よりも、娘が乗せて貰った時の対応の方が優しく丁寧に接してくれ、日本も子供に優しい国で良かったなと思った。
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時代の流れやコロナ禍で人との距離がまたじわじわと広がりつつあるのかなと感じていました。
ですがここ湘南に移住して来て最初に感じた印象は、とにかく人がフレンドリーに接してくれるという事。
来てしばらくは徒歩で移動していた事や、うちの3歳児が全く人見知らない…どころか誰にでも話しかけたりする性格のせいもあり、余計にそう感じている部分もあるかとは思いますが…
●郵便局で私が用事をしている間にずっと遊んでいてくれたおばちゃん
●暑い日にもう歩きたくないと誰かんちの軒先に入ったところ、冷たい麦茶を持って来てくれた住人さん
●道端でもう歩かないとわめきだした時に頑張れ〜と励ましてくれた道行く人々
●かごの中の犬をじっと見ていると、”この子”の自己紹介を始めてくれたおばちゃん
●そんな事が日常である日々
そういうのって、現代の日本にもまだ残ってたんですね。
特に昔から地元に住んでいるであろう方々のフレンドリーな事よ、
久々にバリ島での人との関わりを思い出したりしました。
それと、フレンドリーでありながらも上品さは残っているという不思議な感じ…
いや、別にフレンドリー代表の関西の某エリアと比べてる訳じゃ無いですよ(笑)
カバンから飴ちゃん出してきてハイッてくれる人も好きですし!
バリみたいに初対面で家族構成から仕事、給料なんぼやーっまで聞いてくるバリの感じも嫌いじゃないですよ!
そんなこんなで、ふらっと道を行けば人とのコミュニケーションがふと生まれたりもするこの雰囲気を、とても気に入っています。
あと、古い物がレトロ格好よく残ってる街並みや、
受け継がれたものを残したいと思う気持ち、
日本のバリ島はてっきり大阪オンリーだと思っていましたが、
関東にもバリ島みたいなところがあったとは、意外です。
旦那に言わせると
「余裕があるからこそ出来るんやわ、近所のポルシェは屋根無しパーキングで雨ざらしやで、サビサビなってるし」
とかまたよく分からない事をつぶやいていましたが、
こんな風に心地よいと思える場所に身を置き、カタチから入る心の余裕も重要だと思いました。
まぁ今回の移住にあたり、実は一度も下見に来てはいなかったんですけどね、
ところで、そんな常にインドネシア目線(一部の富裕層を除く)な旦那の湘南の第一印象は、”田舎なのにお洒落”だったそうです。
これこそ都会人の求める”田舎”なんだとか…まぁ分からなくもない。
その辺分かっている割には、スンバ島をもうちょっとDEEPからECOに印象操作しよう、といった私の意見は取り入れませんでしたよねっ。
まぁ私たちが失敗したスンバのサーフキャンプ経営もまだ諦めた訳じゃ無いですけど…
と…そんな旦那の故郷は、扇風機は使える程度の電気は来ているが、
水道もガスも今の所まだ無いし井戸を汲み上げる為のバケツの紐さえも切れてしまう、
文明からはかけ離れた、インドネシア人でもびっくりレベルする田舎です。
そんな旦那が3月ギリギリに内見をして回り、最終的に契約を決めた場所は、
私がピックアップした5か所のうち、ただ海から一番近いDEEPな物件でした。
ブログTOPの画像を覚えたてのイラストレーターで描いてみました。
湘南の海と江の島シーキャンドル、大好きな江ノ電の線画にしてみました。
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過去の記事をランダムに開け、そこからは過去の自分の様子を覗いてみる。
サーフィンが好きでバリに移住した20代半ば→
結婚後しばらく過ごした日本での出来事→
秘境スンバ島での起業と挫折→
バリ島での仕事復帰と子育ての事→
別居しワンオペ育児だった日々→
どの部分を見ても過去の自分、なかなかぶっ飛んでいるではないかー−−!!
特にスンバ島で過ごした数か月の記事には、「お前正気か?」と思える節々もあって、客観的に今の自分と見比べてホッとしてみたり・ちょっと淋しい気もしたり、あぁこれが歳をとるという事なのかとしみじみと感じました。
ところで2022年現在、私たちは家族で湘南に住んでいます。
なぜ湘南?と聞かれたりもしますが、
色々あって、ほんと色々あって、この場所に落ち着きました。
いや、落ち着こうとはしていますが、現状必死にもがいている感じです。
あの日まではインドネシアに一生住み続けるつもりだったし、
日本で出稼ぎをしていた旦那もいずれはインドネシアで生活をしたいと言っていたし、
日本に帰るという選択肢はありませんでした。
よく周りの人からは、インドネシア人の旦那は外国(日本)で一人働いて、
私は外国(バリ島)で一人育児をし、
「大変そうやな」と言われたりもしましたが、
いやいやいや…
少なくとも私にとってはバリ島での生活は控えめに言っても最高っ!!でした
ですが、私たち家族に転機は突然やって来ました。
体力だけが取り柄だと思っていた旦那が、何と日本で突然倒れてしまったのです…
忘れもしないあの日、知らない番号からの電話が鳴り、旦那が突然倒れ救急搬送されたと聞きました。
人の死というものを何度も見ているであろうジャワ人の友人によると、「もう危ないかもしれない」と…。
その他の会話はよく覚えていないけれど、頭が真っ白になった事だけは覚えています。
実はその救急搬送の一週間前に頭痛でクリニックを受診し、そこから大学病院を紹介され、とんとん拍子で検査が行われ、何とステージ5「末期腎不全」だと診断されていたのですが、絶望感に襲われてはたものの、あんなに元気だったし何かの間違いでは無いかという期待もありました。
ですがその病名を突き付けられた次の日、仕事中に動かなくなってしまったトラックを後ろから押したところ、血圧が上昇して倒れてしまったのだそうです。
バリでその連絡を聞いた後は何も考える余裕も無く、家も車も何もかもをバリ島へ残したまま、ただPCRの紙とチケットを持って飛行機に飛び乗った様な感じでした。
私が初めてバリに移住してから12年の時が経っていました。
これまでの思い出を振り返って空港で泣く暇すらも無かったのはせめてもの救いでしたが、こんな形でバリを離れる事になるとは思っておらず、旦那に起こった出来事も信じられませんでした。
そして、スーツケース二つと子供二人を連れて、ジャカルタ経由で必死に日本にたどり着いたあの日から、もう一年が経っていました。
日本の素晴らしい医療のおかげで、旦那は何とか生きながらえ、IgA腎症という難病由来の末期の腎不全だった事も判明し、今では週に3回の透析治療を行っています。
帰国後のしばらくは私の実家に家族でお世話になりながら、旦那は透析導入を行ったりしていましたが、体調も落ち着いて来た為に半年前に横浜に戻り、起業する道を選びました。
そして新学期の4月を迎え、私たち三人(私・娘・息子)も神奈川へ転居する事に、やはりバリ島暮らしの日常でもあった海辺の生活が忘れられず、横浜から一番アクセスの良い湘南に移住する事に決めました。
帰国した直後はドクターに「数値的には生きているのが不思議です」と言われた旦那でしたが、今は元気に朝からサーフィンへ出かけ、そのまま仕事をし、夜間透析をしながら生きています。
何なら私の方が、腰痛が悪化したり、コロナに感染したり、帰国ブルーで涙が出たりしていますが、
自分に与えられた人生を、出来る限りポジティブに捉え、生きていきたいなと思っています。
ところで、3年間放置したBLOGは復活するのか?!という今回のテーマ、
自身のブログで検証してみたいと思いますので、たまに覗いて貰えるとうれしいです。
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この焦り始める日が若い頃よりも早まってきた辺りに、自分の成長が感じられます。
昔は前日の夜中に荷造りしたものですが、まぁ今のバリ島には私が必要だと思うモノは何でもあるし、無いなら無いで何とかなります…
コンタクトレンズも、クレイジーソルトも、サプリメントも、大体バリ島でも手に入ります。
ですが日本で買ったほうが明らかに安かったり、クオリティの高いものを厳選して持って行く感じです。
そういえば、6年前の旦那の故郷”スンバ島”へ移住した時は、それはそれは大荷物でした。
キットカットやハム&チーズ・バターまで、島では手に入らないモノを思いつく限り買い込んだものの、荷物のみがティモール島へ行ってしまい、全腐りでしたわ…。
それなのにサーフボードはちゃんとスンバ島に到着し、何故か私の大型ボードケースとそれに続いて棺桶が一緒に飛行機からおろされたんですよ…。
何でも、バリ島でスンバ人同士の”いざこざ”があったそうで、その一人が棺桶に乗ってスンバ島へと戻って来たのだそうだが、ご遺体を空港で待ち受けるご家族が皆イカットを巻き腰に刀を刺した”正装”で待ち構えていて、さぁ敵討ちに行くぞと話が盛り上がっていたのだった。
やれやれ、物騒な島に嫁いで来たもんだなと思ったものでした。
と話は飛びましたけど、そんな感じで、今のバリ島に無いものはあまり無いので、忘れて物があっても特に問題は無いのです。
パスポートと財布と携帯さえあればね…
え、、、!? そのパスポートが見当たらないって??
そんなまさか、国を代表する公的機関が国民の大切ーーな重要書類失くす訳無いでしょ…無いですよね…!!
……???
という訳で話はさかのぼりますが、5月の中旬、いや忘れもしない5月20日に、私は新しく出来上がった”オトウト”(0歳児)の日本国パスポートに、インドネシアの両国籍を持っていますという”二重国籍証明書”を貼って貰うため、パスポートの原本を〇〇ドネシア〇〇館に送った。
〇が多いですがご察し頂ければと思います。
ホームページに書いてある通りに各書類のコピーをとり、(7年前は確か全ての書類の原本が必要だったので、今以上に不安だったが、)パスポートのみは原本を送らなければならず、そこに取得費用1300円を払いましたよという”払込票”も同封し、少しの不安がありながらもレターパック(追跡ありのスピード郵便)の中に返信用のレターパックを入れて送るという方法に従い、ポストの前で手をたたいた。
パンパン”無事到着します様に”
恐らくずっと日本で暮らしていたのなら、このポストの前で手を叩く儀式と、飛行機の離陸前に手を合わせる儀式は一生する事が無かったんじゃ無いかと思う。
それだけの”ありえない”をいつも想定しながら暮らしているけれど、何だかんだで国の公的機関もちゃんとしていたり、街並みと同時に発展していくシステムに出くわしてはなかなかやるなと特にここ数年で感じ始めていたところだった。
のだが、
待てど暮らせど、送ったはずの”オトウト”のパスポートは届かない…。
こちらから送ったレターパックの追跡番号を入力した所、書類は確かに〇〇館へ届いてはいた。
レバラン休暇(断食明け)と重なり、混雑しているのかな?と思ってみたり、
G20の交通規制で、郵便屋さんが遅れているのかな?
もしくは最近、郵便局の荷物と配達員が行方不明になった事件もあったばかりだし…と疑ってみたり。
それにしても遅すぎるので、不安になって電話してみたが…
今、担当者が居ないです!! ガチャっとか、
ここ〇〇館には無いのでもう送ってるはずだとか、
今配達中ですが多分混んでいます…とか、
いやいやいや、この数日間でも楽天市場の商品はポチっては届き、ポチっては届きしてるけど、
なぜ肝心のパスポートが届かない…
余裕を持って申請していたのに、このままでは渡航の日に間に合わなくなる。
それに玄関のピンポンがなる度に期待して裏切られるこの気持ちをどうにかしてくれ!!
そしてそれから約一週間後の事、我が家に一本の電話がかかって来た。
「あのー〇〇ドネシア〇〇館ですが…実は”オトウト”さんのパスポートがここにあります!
ですが二重国籍証明書の取得費用が6月から変更になり3700円に変わったので、足らずの2400円振り込んで下さい。
そしたらパスポートすぐに送りますんで…」と、、、
え?何ですかその人質交換みたいな感じ、しかも結構な値上げしましたね…
けれどようやくパスポートが見つかった事にとりあえずほっとした。
3700円−1300円の計算も合ってるし!!
だけどだけどね、お気づきでしょうか、5月に書類を揃えて送っていたのに、そちらの不手際で手続きが6月にのびのびになっているのに、最近変更になった差額をやはり払わないといけないなんてね、流石だわ。
流石っス!!
だからGoogeMapの評価のほとんどが★一つなんですよ…
そして、郵便局で差額の2400円を支払い、待つ事さらに約1週間、
待てど暮らせど、”オトウト”の大切なパスポートは届かない…。
こんな事ならもう諦めてパスポートを作り直し、観光ビザでインドネシアに入国しようか…
気分が諦めモードになり始めた瞬間、私のなかで久しぶりにイラっとした感情がこみ上げてきた。
0歳児を連れてのパスポート取得は、それなりに大変だった。
写真を目線が来るまで何枚も撮り直したり、抱っこ紐で混雑したパスポート事務局へ2度も行ったりと、道のりは長かったのだ。
あれをもう一度しなければならないのか?
そしてそのイラっとした感情を、同じ国籍を持つ旦那へぶつけてみる事にした。
因みに、外国人と結婚した彼らのストレス原因NO1は、自国の不手際によるコンプレイン(クレーム)を旦那や奥さんから聞かされる事らしい。
何故か同国民に対しての方が高圧的な態度をとって来る事の多い某国の公的機関の職員さんたち…
旦那が私に言われた通りに”レターパックの追跡番号で配達状況を調べて欲しい”と伝えた所、
「なぜ送る前に中に入れた返信用レターパックのシールも剥がさずに送ったのか?
私達は追跡なんていう仕事を追加でしたくは無い」と責められたそうだ…(怒)
そんなルール聞いてませんし、レターパックの番号は送る側がポスト投函前に剥がすものじゃ無いですか??
大体、手数料を2400円も上げたクセに、レターパックのシールの管理くらいきちんとして頂きたい。
だからGoogeMapの評価のほとんどが★一つなんですよ…
それから約一週間後、
パスポートの事は諦めかけ、再発行へ行かなければと思っていた所に電話がかかって来た。
ここまで来るのに既に3週間と数日が過ぎていた。
「実は”オトウト”さんのパスポートの入ったファイルが別の場所にありまして、これからすぐに送りますので。」と謝罪された。
次の日、忘れもしない6月20日の午後、”オトウト”の大切なパスポートと二重国籍証明書の入ったレターパックは我が家に無事到着した。
ちゃんと追跡番号のシールも剥がれていた(笑)
トラブルが無ければ3営業日に発送される予定だったパスポート、
1ヶ月の長旅を終えてようやく手元に戻ってきた事もあり、よく分からない達成感さえ湧いてきた。
そしてその間、郵便局を少しでも疑ったことを反省した。
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前回の記事がつわりが終わった位だったので、ブログ放置歴が1年に達していた様ですが、私達は元気です。
お茶碗に半分くらいのご飯を食べたらへんからため息をつき始める、食の細い”コムスメン”(7歳)も、
お茶碗いっぱいのおかゆを食べほした後にまだ物足りなそうな顔をする、体重右肩上がりな”オトウト”(7か月)も、
すくすくと成長しています。
ブログによると、ちょうど去年の今頃は、コムスメンのバリ島現地校での卒園式前日に、寝室にアルコールの水たまりを作った旦那さんでしたが、現在は関東で出稼ぎ中。
(前回のブログの”水たまりの話”が割と好評だったので、リンク貼っておきますね…。)
ところで旦那さんは、一年前に寝室に水たまりを作ったとは思えない位、日本ではちゃんと働いていて、すっかり真面目モードにスイッチが切り替わっている模様です…
相変わらずな別居生活ではあるけれど、1〜2か月に1回のペースで今私がお世話になっている関西の私の実家へお土産片手に帰って来ます。
そして、床によだれの水たまりを作るのがマイブームの”オトウト”の顔をしげしげとみつめては、「俺の小さい頃にそっくりだ」と言ってにやけていますが、このよだれの水たまりが、35年後にはアルコールの水たまりになっていない事を祈っています。
ところで、離れて暮らしている私と旦那さんとのコミュニケーションツールはもっぱらLINEなのだけど、この前旦那さんが働いている”解体屋さん”(全員外国人)のところに、スリランカ人の男性が出稼ぎにやってきたそうで…
その日もちょうど休憩時間にLINEで話をしていたら、電話の向こうでスリランカ人男性が旦那に「飲み物買いに行くけど何かいる?」と話しかけていた。
なかなか気が利くではないか!!
それに対し旦那は、「あ、何でも良いよ適当に、ついでに皆の分も…」と頼み、周りにいた皆も「何でも良い」と告げていた。
そして5分後帰って来たスリランカ人男性の手には、何とぶどうジュースが8本も!!!
「何で全部ぶどうなの?」と、先ほど何でも良いと告げたばかりの旦那が言っていた。
どっちもどっちだとは思うけど、確かに…当たり障りの無いお茶やジュースならともかく、外食メニューにもなかなかチョイスされなそうなぶどうのジュースを選ぶところは国民性なのかなとか思いつつ、そんなおつかいの話は忘れていた。
それから数日後、私の実家に帰って来た旦那さん。
何故かいつも新幹線で行き来するのだが…、普段はハードな仕事をしているのだろうから「夜行バス使えば」ともそこは言えず、
というか言う前に、「長距離バスは疲れるから嫌やねん」と、そこも日本モードでおっしゃる旦那さん…
え?インドネシアの皆様って横向きの大移動全然平気やと思ってたけど、違うかな。
大体昔はスンバからバリまで船で3日間かけて行き来してたのでは?
しかもそのうちの一回は小さな漁船だったとか何とか…
環境は人も変えるのね、、
と、自分の事はすっかり棚にあげ、旦那の変化に対して色々と細かい事を思ってみたりもするけど、口には出さないでいた。
それにそれに、日用品やビールも全てポイポイとコンビニで購入して来るし、ポイントカードも使わずに!!
しかも発泡酒でも第3のお酒でもなくプレモル500ml×4本だったりという、
そーゆー小さな事もろもろにも全て目をつぶっている私だけれど、
話はそれましたけれど、その日も深夜のコンビニにビールを買い足しに出ようとしていた。
社交辞令的に「ビール買いに行くけど何かいる?」と私に聞いてきた。
日々の授乳のせいか、夜食抜きでは眠れない私は、「クレープ」をリクエストした。
実は毎晩スイーツかアイスクリームを食べるのが日課になってしまった私…
出産時に20kg増え、今なお10kgしか落とせてないという事実は、後々考える事にする。
そして私はもうすぐ帰って来るであろうカロリーたっぷりのクレープに思いをはせていた。
甘いものにコーヒーは欠かせない、スタンバイも万全で旦那を迎えたところ、
「無かったわ、クレープは、でもその替わりにこれ買ってきたから!!」
と、自信満々に手渡してきたのは、
???ぶどうゼリー???
!!!しかも2個!!!
「ガーーーン」とは言えなかった…わざわざ買って来てくれたのだから。
だけど口がクレープモードになってしまっていた私は割とショックを受けていた。
何でゼリーよ、全然ゼリーの気分じゃ無いわ、
こーゆーのとか、
こーゆーのとか、
期待してたのに…
クレープが無かったとして、替わりに買うなら同じ棚にあるシュークリームとかロールケーキとかが妥当じゃない??
何で裏側の棚にあるヨーグルト&プリンゾーンからわざわざ選んだのよ…
そんな事よりこの深夜のコーヒーはどうすんのよ…
という全ての心の声にはそっと蓋をして、やさしく問いかけた。
「何でぶどうゼリーにしたん?」
そしたら「クレープが無かったからグレープのゼリーにした…好きやろ?」と、真面目な顔して言ってきた。
え、点々?点々付けるそこ?
クレープからグレープて、親父ですか?しかも真顔で。
それに前はグレープの事をぶどうって呼んでたのに、何故英語になった?
確かに、つわりの時には食べられそうなものがゼリーしかなく、バリでも手に入るたらみのゼリー3種類のローテーションで日々を乗り切った事は確かだけれど、どちらかと言うと苦い思い出…。
”旦那が思う私の好み”も、もしやそのつわりの時点で止まってるさては…?
このブログ並みに更新頻度低すぎなんですけど。。。
という心の声にも蓋をしつつ、良い方に捉えることにした。
ダイエットがなかなかはかどらず、そんな私を気遣ってあえてカロリー控えめなゼリーをチョイスしてくれたのかもしれないという事にして、乗り気ではないゼリーを食べてみたところ…
「美味いわっ」日本のゼリーなめとったらあかんわ!!
ぶどうゼリーの中に、立方体のぶどうの寒天がまばらに入っていて、またところどころにナタデココが潜んでいる。
何と1つのゼリーで3つの食感が楽しめる♪♪
という事でその日は日本の進化したゼリーを堪能し、旦那が関東に戻った後すぐに、思いをはせていた念願のクレープをまとめて2個堪能しときました。
と…噂をしていた所、またしても旦那から連絡あり、これから新幹線乗るわ…と。
現場と現場の間に一週間の隙間が出来たらしいのですが。
え?大丈夫なん、隙間って…割と大きな隙間ですけど?
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バリ島からのフライトの直前(ほんの数時間前)にアグン山が大噴火したり、帰国の直後には西日本では洪水災害、その後は猛暑にやられたりで、コムスメンも今までに見た事が無い位大粒の汗を流していますが、私達は何とか元気です。
身近で災害を目の当たりにし、いつ南海トラフ大地震が起こってもおかしく無いと言われているので、ただ今実家の頭上を(ホンキで)断捨離中。
そんな最中にロンボク島で大地震が起こり、今なお地震が続いているので心配ですね…。
ところで先月、コムスメンが3年間通い続けたバリ島の幼稚園を無事に卒園しました。
インドネシアでは(私の知る限り)パリっとした入学式というものは無く、その分卒業式にはかなり気合いが入ります。
子育て中心生活をしている私にとっても、一人娘の卒園式というのは一大イベントであったので、前々から服を準備したり、何かと気合いを入れていました。
それなのに、直前に知らされた旦那からの一言「俺、明日からスンバ行くから…」と。
その旦那の言う何気ない”明日”というのは、私とコムスメンの一大イベント”卒園式”の日でもあり、せっかくバリに3か月もいたのだし、娘の最後のハレ舞台に位”参加しとけよ”
そもそも、日本で出稼ぎ中だった旦那がバリにいるのは、絶賛つわり中だった私に代わって、コムスメンのお世話をするというのが目的だったのに、最終日に不参加というのはかなりのマイナスポイントだと思うのだけれど…
とまぁそんな事言い始めても仕方が無いので、当日に向けてコムスメンと一通りの衣裳合わせを済ませ、今夜も深夜にどこかで酔い潰れているであろう旦那の事は放っておいて、前日は早めに寝る事にした…。
その数時間後…ガシャーーンと家の門の辺りでかなりデカイ音がし目が覚めた。
慌てて外に出ると、泥だらけの旦那が血を流しながら帰って来た。
時計を見ると深夜の1時…
おじさんの家からバイクで帰る途中に山の中のがたがた道で転んだらしく、その衝撃でブレーキが壊れたので、最後は我が家の門に軽くぶつかって停車したのだそうだ。
OLX(インドネシア版のメルカリ)に出していた旦那のバイクは既にボロボロになっていた。
酒のにおいを撒き散らしながら説明された内容は理解出来たが、人としてはもはや理解不明…
どうせなら隣のジャングルにでも突っ込んでくれれば良かったのに。
何よりも明日の本番に備えて早めに寝ていた所を起こされた事が一番腹立たしかったが、コムスメンは騒音位で起きるタイプでは無いのがまだ救いだった。
旦那は寝室に入っては来たものの、私の怒りを察知したのかそそくさとクッションを枕代わりに床で寝始めたので、私も寝直す事にした。
が、、パシャン・パシャンと部屋の中で魚が水を跳ねる様な音が聞こえた気もした。
魚は飼ってはいない。
NUSADUAビーチで作成しました。
そこから今度は妙な声でウーーウーーーとうなりだしたが、助けない事に決めていた。
その後、ウオーーーーー…という叫び声に変わったので、それに負けない位の声で、
「うるさいわーー何時や思てんねん‼」と叫び返した。
そのうちに、インドネシア語で何か訳の分からない事を喋り始めたので、ふと熱帯熱(悪性)マラリアを患った日の旦那を思い出したが、助けない事に決めていた。
また…旦那のマラリア奮闘記+ノーベル賞を受賞したマラリア漢方薬。
よく分からない独り言の締めくくりにTidak Bisa---!! と大声で叫んだ後静かになったので、私もトイレに行って寝直そうと思い、ベッドから降りたその時…
私の足が”パシャン”という音と共に水溜まりの中に浸かっていた。
ぞっとっした…小さい頃、寝たまま鼻血を出してしまい、枕一面が真っ赤に染まっていたあの時位にぞっとした。
部屋の逆コーナーで寝ていた旦那の”寝ゲ○”というやつが、何と逆コーナーの私の真横まで流れて来ているとは、、
どんだけ部屋傾いてるねん‼
とりあえずトイレを済ませてから、見たくなかった旦那を視界の隅に入れてみると、全裸で横向きになってうずくまっている旦那の口から液体がパシャン・パシャンと小さな音を立てながら流れているでは無いか‼
けれど一週間ほど前まで、吐きつわり上級者だった私はピンときていた。
胃の内容物を全て吐いただけでは部屋一面が液状化するわけが無い。
これは膀胱からの液体だと分かった瞬間に、また怒りがフツフツと込み上げてきたが、ハレ舞台の前日に余計な気力体力を消耗したく無かったので、そのまま寝る事に集中した。
が…一度正体が分かってしまうと気になって仕方が無い、相変わらずのパシャン・パシャン…。
結局、寝たのか寝てないのかよく分からないまま朝を迎えると、深夜のパシャン・パシャンは本格的な嘔吐に代わっていた。
オエェェーウエェェェーと、寝たまま1分間に5回位のペースで吐き始めた。
コムスメンはまだ何事も無かったかの様に横で寝ているので、「うるさいから吐くなら外で吐いて来てよ!!」と言ったら、私の言葉を理解出来たのか、泥の様に部屋の外へと這い出して行ったので、まだ死ぬレベルでは無いなと思った。
そしてコムスメンが起き出し、部屋の異常事態に気が付いたと同時に旦那をありえない場所で発見した。
外で吐けとは言ったけれど、家の外とまでは言っていない。
…まさか公共の場で全裸のまま吐いているのかと思い念のため確認したが、何故か下だけは長パンツに履き替えて、家の門の前で倒れていた。
その前をバイクがブーーンブーーンと何台も通り過ぎていくけれど、みんな横目で見るものの、誰一人声をかけたり助けたりはしようとしない、またしても異様な光景を見てしまった。
お節介で親切な人が多いインドネシアでは、道路で人が困っていればすぐに人だかりが出来たりする。
私もバイクでエンジンがかからなくて立ち往生しているだけでも、よほどの田舎道で無い限りは、だいたい3分以内に人が助けてくれる。
それが当たり前だと思っていたから、道路で人が倒れているというこの異常事態に誰も声をかけないというのがかなり意外だった。
だが、私も助けない事に決めていた。
とりあえず、旦那を玄関前に寝かせたまま、卒園式の準備を終えてコムスメンと出掛けようとしたその時、それまで玄関で倒れていた人とは思え無い程の勢いで旦那が飛び起きて家の中に入ってきた。
「ヤバイ、飛行機の出発まであと15分しか無いし、何で起こしてくれへんねん‼」
と我の事を棚にあげて言い始めたが、ドレスにも着替えて久々のメイクをした直後だったので、怒りを抑えて”無視”する事に決めた。
コムスメンだけが「パパ、大丈夫??」と一応気遣っていたのが唯一の救いだったと思う。
空港まで15分かかるのだから、チェックインその他を入れると確実に間に合わないのに、最後の望みをかけたのか旦那は物凄い勢いで家を飛び出していった。
前日から用意していたカバンは置き去りのまま、壊れていない方のバイクとサーフボードだけが無くなっていた。
サーフラックも無しでバイパスを空港まで暴走している旦那を想像したら本当に間抜けだなと思い、またしても結婚した事を深く反省した。
そんな一日の始まりだったけれど、コムスメンの卒園式は無事終えることが出来た。
会場は思い出のつまった校舎では無く、何の思い入れもない近場のホテルだったり…
日本の卒園式みたいに親も子も涙する場面も特に無く、終始ダンス三昧だったり…
(放課後のエキストラクラスというやつに参加させると、3時間の保育時間延長という”おいしい条件”につられ)ほぼ全てのクラスに参加していた娘は今回もやたらと出番があり、
クラスのダンス→インドダンス→バレエ→ヒップホップ…
と4ステージの合間に親たちは着替えを手伝う為、ほぼ舞台裏にいたり…
相変わらずツッコミどころ満載で、持参したハンカチも全く出番無しでしたが、皆にしばらく帰国の挨拶も出来たし、良い一日になって良かった。
やっと落ち着いた帰り道、肩の荷もおり、お腹もいっぱいで良い気分で運転していた所、ふと思い出したのが、寝室に出来た水たまり…。
再び嫌ーーな気分になって家に到着し部屋を開けると、何と綺麗に片付いていた。
結局飛行機に乗れなかった旦那が家に戻り片付けたのだそうだ。
あの後旦那は空港でサーフボードを抱えたまま意識を失ったそうで、数時間後に気が付いた時には外は真っ暗になり、新たな水溜りを空港の出入り口の床に作っていたらしい。
場所を変えてもやはり誰も助けてはくれないまま、今度こそ本気で死ぬかと思ったのだそう。
恐らく今回旦那が死にかけた原因は、素人の作ったアラック(地酒)にメチルアルコールが残っていたのでは無いかという事だった。今後は「いつも買うちゃんとした素人が作ったアラックしか飲まない」と宣言した人は、人生の最期をどんな形で迎えるのだろうか…とふと思った。
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日々のストレスと言えばコムスメンの学校の送り迎え位なもので、(←まぁこれが結構大変だったりもするのだが…)
日本で働く旦那からの仕送りに頼る今の"別居生活"にも、大いに慣れ…
一方の旦那も日本で大変&淋しい思いをしているのかと思えば、その様でも無く…
割とお互いが悠々自適な生活を送っていた所だった。
のだが、、
私が人生で一番苦しんだ日々が到来してしまった、、
まさかの、7年ブリのつわりは突然始まった。
トマトなら食べれたとか…
夕方仕事から帰るとソファーに倒れこんでいたとか…
ご飯の炊けるにおいがダメだったとか…
世の中のつわり初心者ママ達を否定するつもりは無いけれど、マジで”そんなんでつわり語るなよレベル”ですわ。
そういうのはつわり上級者の私からすると”ほんの序の口レベル”で、本気つわりの前後2週間にある”おまけちゃん”みたいなもんで、私の場合は今回も見事にまた”地獄レベル”でしたわ。
「私はつわり無かったなぁ」とか、「吐くほどじゃ無かったけど」とか、そのような体験談を語る人達はこの時ばかりは敵に分類され、「私もつわりで死にたいと思った」「10キロ痩せた」位の話にしか同調出来なかった…。
その後、間もなく学校の送り迎えどころか、ご飯の調達や起き上がる事すらも辛くなり、コムスメンは文句も言わずにロールパンばかりかじっていた。
そして結局、寝返りをしただけでも吐くレベルになり、日本で出稼ぎ中の旦那を呼ぶ事にした。
その頃…
洗濯物はまさに山と呼べる高さに達しいて、
ゴミやホコリが家中に散乱…
自分が放つ異臭を感知できる位になったというのに、どうしてもシャワーにはむかえない。
かろうじてベッドでたらみのゼリーやらカット済みマンゴーやら食べては、ゴミをそのまま枕元に置いていたせいか、遂にゴキブリが私の背中を這って通過する程の環境になってしまっていた。
現場にいた旦那とコムスメンは、その時は流石に騒いでいたのだけれど、私はそういう事にいちいち反応する余裕ももはやなく、部屋の一点をただじーーーっと見つめながら、静かに時が過ぎるのを待っていた…。
そんな中、テレビで見るゴミ屋敷なるものがふと頭をよぎった、、
そこに登場する”ゴミ屋敷の住人”達…
恐らく彼らは散らかっているのが平気な訳じゃなくて、何とかしたいと思いながらも目の前の山に立ち向かう気力が無いのだ。
そして、誰かにヘルプサインを出す気力すらも、残ってはいないのだろう。
色々な状況やトラウマが引き金となり、無気力による悪循環に陥っているのだと思う…。
仕事でゴミ屋敷を掃除したりもする旦那、彼の登場でこの汚部屋が片付くことを期待していた。
しかしあろうことか、何と旦那は我が家のゴミの山と洗濯物の山の間の谷間で、平然と寝転びながらYou Tubeを見続けていた。
彼は、このゴミの山を「まだ山では無い」と言い、
汚くなった部屋を「どこが汚いのか分からない」と言い、
私の放つ異臭にもどうやら気がついていない様子…
そういえば、7年前のつわりの時には、悪阻による入院生活の真っ最中に滞在ビザが切れ日本に脱出していたし、結婚後もここまで私が掃除を放棄した事は初めてだっから、旦那とこんなにも感覚が違うという事にさえ気付いていなかった。
ただ、この頃つわりのピークを迎えていた私は全ての事に対して無気力だったので、旦那に対して”怒り”という感情すらも湧いてはこなかった。
異臭といえば、私の嗅覚は全ての物から地獄の匂いを感じ始めていて、においで選んだシャンプーも、においで選んだ洗剤も、臭くなった枕も全てを封印したのだけれど、確か7年前は10m先から犬が近付いて来るのも分かる程に、今回以上のひどい”においつわり”だった事を思い出した。
旦那が到着するまでの間、コムスメンの送り迎えを頼んだ”おじさん”が朝家にお迎えに来るたびに酷く吐いてしまい、何度も病院に連れて行かれそうになった。
だが、痛い点滴の為に1jt(約一万円)も払ってたまるかと、意地でも断り続ける事に成功した。
そんな感じで、”あらゆるにおい”にやられていた最中、旦那から私への日本土産は、何故か”におい”を代表する香水だった…。
よりによって香水??と思ったけれど、口には出さないでいた。
ところで、生まれて初めて男性からコスメ貰ったかもしれない…。
これを買った時、果たして私用だったのかどうかは謎ですけどね、まぁ良いけども…。
女の子へのバリ土産にコスメを選ぶ男子は遊び人なのか!! BALI
で、旦那到着から一週間後にバリに遊びにやって来た義理の妹、
オーストラリアに嫁いだ彼女からのお土産は、何とBODY SHOPのギフトセットでした。
何でこのタイミングで…??。
さすがは兄弟だなと思いましたが、どちらのお土産にもその時点で出せる最高の作り笑顔でお礼を言いました。
その数週間後…つわりは落ち着くどころか、何と吐血に至った。
今回ばかりは、旦那が来てくれて良かったなと思った。
血が混ざっている感じではなく、まさに血がドロッと流れて、鉄の味を感じたままベッドに倒れこんだ。
その後、吐血で思いつくあらゆる病気が頭をよぎり、恐怖を感じ始め、だんだんと手足がしびれ始めた。
この感じ…数年前の思い出が蘇った。
スンバ島に住んでいた時、原因不明の腹痛で倒れた時にマラリアだと宣告されたあの時も、こんな感じで手足がしびれたのだ。
当時、マラリアに対して無知であるが故に極度の恐怖を感じていた私…。
その病に自分がかかってしまったと思い込んだことで混乱し→過呼吸気味になり→手足がしびれて筋肉が固まり始めたあの症状は、マラリアの始まりなんかではなく、恐怖から来るパニック発作だったという事が後から分かった。
だから、今回は手足が痺れつつも冷静になり、吸う呼吸よりも吐く呼吸を多くする事で次第に落ち着いた。
スンバ島にもブラックマジック?!【Part1】恐怖のローカル病院 @スンバ島
次の日…吐血はおそらく吐き過ぎによる食道炎だと診断された。
しかも割とさらっと言われたので、つわり大国インドネシアではよくある事なんだろうと思う。
今回は7年前のつわり地獄よりはだいぶんマシだったと思うし、点滴も3回のみで済んだのだけれど、
体重は5kgほど落ちていた。
まだ時々嘔吐は続くものの、ようやく食事をとれ始めた今日この頃、やっとBODY SHOPの出番もやって来た。
そして旦那をバリに呼び戻してから、既に3か月が経過していた…。
そんな旦那は「早く日本に帰りたい」と日々言い続けている。
出番は”子供の送り迎えのみ”という南国ゆるゆる生活に日々にうんざりしているのだそうだ。
パリッとした日本の環境の中で、家を壊したり、ゴミ屋敷のゴミを淡々と片付けたりしながら、いい加減に貯金をしたいのだそうだ。
それだったら別にゴミと洗濯物の谷間でだらだらと生活しなくても、シャシャっと家の大掃除なんかをしてくれても良いのに…。
今回の旦那の登場は、我が家のゴミの山を撤去するまでには至らなかったけれど、何かと活躍してくれたと思う。
私の3ヶ月以上に続いた悪夢の日々も終盤、今は”メルカリ”でチャチャっとDiorの香水の価格相場を調べたりも出来る位に回復しています。
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それ位、実感が無いというか…影響が無いというか…バリ島南部はいつもと変わらない生活をしています。
噴火直後に私の住んでいるジンバランエリアには少し降灰があったものの、いつもホコリで汚い車が更に汚くなっていた程度でした。
ですが、標高のせいなのか、火山からは更に離れたウルワツエリアの方が降灰量が多かった気がします。
ようやく噴煙の落ち着いた日のSNSには、バリ島各地から撮影されたアグン山の写真が並びましたが、私自身もこの日初めて近所の丘からもアグン山がはっきりと見えるという事を知りました。
それにしても、こんなにも大きな山の存在にずっと気がつかずに生活していたなんて…自分の鈍感さ具合に呆れます…。
そんな鈍感な私が、ニュースでしか見ない”アグン山の噴火”をリアルに感じたのは”海”でした。
人がいない…正確にはいるけどめっちゃ少ない。
朝からビーチで本気で寝ていた人達も居ないし、
朝からワルンで本気でビールを飲んでいた人達も居ないし、
今日が人生初のサーフィンなのにも関わらず、やってきた大波を目の前にGo Go!!とインストラクターに叫ばれ、何の疑いもなく突っ込んで行ってしまったツワモノ達も……、
私もこんな感じでサーフィンを始めていたら、きっとすぐに辞めていたんだろうなと…波越しのお気の毒な光景を目の当たりにします。
…と、話がそれたけれど、これまでにぎやかだったバランガンビーチの大半を埋めていたのは”観光客”だったという事にも気が付きました。
いつもなら、コムスメンを学校に送った後に1時間半程サーフィンをして帰るのだけれど、そろそろ疲れたなと思って時計を見ても、まだたったの30分しか経っていなかったりして、人が少ない分絶え間なく波が回ってくる感じです。
そしてそんな状況を予測したのか、サーファーの友人から「不謹慎だけど今バリに行きたいわ」とのメールが…。
噴火や空港閉鎖のニュースを聞いて、今なら道路や海が空いているのでは無いかと予測するその辺りがツワモノですね!!
きっと初心者の時に大波に訳も分からず突っ込んでしまったとしても、続ける人は続けるのでしょう。
そう思うと、大波のフェイスへ向かって初心者サーファーを容赦なくプッシュしてしている”彼らへの憤り”みたいなやつが少し緩和された。
いまに噴火すると言われてから数ヶ月後、さらには警戒レベルが一段階下がってからの噴火だったのですが、
(この警戒レベルの下がる直前に専門家の人も火口壁が崩れ落ちたので噴火目前と警告していた)
今現在は噴火が一旦落ち着いて、空港も稼動しているそうです。
ですがこのまま収束してくれるのか、さらにパワーを溜め込んで爆発するのか、それは専門家にも分からないのだそうです。
アグン山が本気で噴火すると、世界の気温が下がる程の威力を持っている火山だそうなので、これ以上は本気出さないで欲しいです。
観光業で成り立っているバリ島に観光客が戻ってくる事を願うしか無いです…。
数か月前に子連れでメキシカンのお店Cacho's Mexicanに行ったら、アーティスト感満載のオーナーのおっちゃんが待ち時間に遊べるようにと色鉛筆と”自作の塗り絵”を持って来てくれたのですが、すっかりはまって食後もしばらく帰れなかった。
↓コムスメン 作
↓私もはまること30分
ところでおっちゃん、確かに普通の人には見えなかったけれど、予知能力でも持ってるんでしょうか??
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そしてこの氷河期の間は撮っている写真が海色に染まるのですが(サーフィンと海水浴はタダなので…)最近の私の写真は青い…”ブルー”です。
ところで今回は片道チケットでインドネシアに帰省し、スンバの実家に帰ったりバリでサーフィンしたりしていた旦那さん…
そのうちサーフィンもしなくなったのでそろそろ出稼ぎに戻るのではないかと予想していた矢先、、、
「俺ちょっとフローレスの親戚のトコに行ってきて良いかな?!」
とか言い出したので、ついに溜め込んでいた一言が私の口を破って出てきそうになりましたが、
「そんなお金どこにあるんやーーーっ」とも、
「フローレスの親戚なんてもう20年近くも会って無くて顔も覚えてへんやろー!!」とも言いませんでした。
私が日本に帰省したい時にそれを言われたら困るので…。
その数日後、たまたまテーブルに置いてあったATMの私の利用明細を見た挙げ句、
「こんなお金のない家に長くいたく無いわっ」
と自ら言い捨て、日本帰国の為のチケットを探し始めました。
遅かったけれど気がついてくれてどうもありがとう!!
私から「そろそろ日本へ帰って」とも言い辛いし、でも日本でハードワークをこなしている旦那に向かって「お金がないのよ」というセリフもなるべく言いたくなかったのよね…。
でもでも、察して欲しくてわざとATMの利用明細を机に置いたりしたんじゃ無いのよ、たまたまなのよーホントに。
「旦那(日本へ)帰ったの?! ホッとするねー」と、声をかけてくれる近い友人も…
「帰っちゃったの?淋しいね…一人で大変だね…」と、若干距離感のある友人も…
ブログを訪問して下さってありがとうございます。
という訳で前置きが長くなりましたが、旦那が帰国後のつい先日、バリ島在住で子供が3人もいる親戚のおじさんから「僕達日曜日に結婚式するから絶対に来てね、今家の前なんだけど出かけてる?」と電話があった。
おじさんはスンバ人で、奥さんはジャワ人、奥さんは”スンバに住めない嫁同盟”の一人で、割と近所に暮らしている。
またしてもおじさん…”訪問→電話”の順番を逆にしてくれれば良いのにな、と毎度の事ながら思うのだけれど、ご丁寧に家まで結婚式の招待状を持って来てくれたそうだった。
え……三人も子供がいるのに「誰とまた結婚するの?」と聞いたら、笑いながら
「今の奥さんと結婚するんだよ!!まだ結婚式していなかったから。」と言われて、驚きつつもホッとした。
そこの家庭は結婚当初にお金が無く結婚式が出来なかったそうで、前々からいつか結婚式をしたいと思っていたそうだった。
とは言っても、結婚後14年目の結婚式ってどんな感じなんだろう?!と、想像してみた。
いつもなら招かれたローカルの行事にはなるべく参加しない方向へと持って行くのだけれど…今回はちょっと楽しみだった。
迎えた当日、挙式の時間帯はコムスメンのお友達のバースデイパーティーがあったので(そちらのほうが豪華だったけれど…)
その後にスンバのおじさんとスンバに住めない嫁同盟のおばさんのパーティー会場に到着した。
GoogleMapにも載っていないアスファルトの無い道を進むと、かなり手前から路上駐車の車とバイクであふれかえっていた。
因みにおじさんの自宅は手作りなので、土地だけをレンタルし、住みながらコンクリートやタイル、屋根などの材料を購入しては
バージョンアップしつつ暮らしていくというスタイルだ。
開始から1時間ほど遅れの到着だったので、既に前半分はダンドゥットという、”演歌調でテンポはノリノリなインドネシアの曲”(自分で言うのもなんだけど、簡潔でかなり分かりやすい説明)でダンスパーティーが始まっていた。
過去にスンバ島での結婚式に(ファミリーだと名乗る人に)招待されたとき、参列者が800人もいたのにも関わらず、新婦以上に注目されてしまったという苦い経験があるので、なるべく地味な服を着て目立たない様にパーティーの中にしのび入ったつもりだったけれど、即座に新郎新婦に発見された。
ただちに親族席みたいな所に座らされ、人見知りのコムスメンと2人、壇上で盛られたご飯を食べる事になってしまったが、そんな事位で食事が進まない程私達の心臓はヤワでは無くなってしまっている。
ノリノリな曲と共にダンスが白熱して、バイクの後ろにまたがるのもやっとなおばちゃんまでもが腰を入れて踊り始めた。
1枚目 間違って新郎新婦の間に入ってしまった…しかも私が新婦っぽい。
2枚目 あらためて”新郎新婦”
親族席から撮ったムービーをインスタの”ストーリー”(24時間で消えるタイムライン)に投稿してみると、普段はコメントの来ないインドネシア人の友人達がコメントをくれた。
「インドネシアのダンドゥットだよ。」とか…
知ってる!! まだ踊れないけど…私がこのノリの中にいる事が”意外”だと思われたみたいだった。
私は過去に結婚式の撮影をしていたせいか、どうしても”非日常的な部分”とか”切り取った綺麗な部分”を残してしまいがちだけれど、私の日常生活はむしろダンドゥット寄りで、ジャズが流れているようなオシャレなお店にはたまにしか行かない。
日常をアップとか言いながら、全く日常を残せていなかった事に気が付いたので、これからは意識して本当の日常を切り取って行きたいと思いますので、お腹の弱い方は正露丸を用意しつつ、Instagramをフォローして頂けると嬉しいです↓↓
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という訳で最近はめっきりインスタ中心になっていたのですが、友人からブログに関してこんな事を言われたのを思い出し、ブログを再開してみようと思います。
私のブログを見て「インドネシア人との離婚を思いとどまった人がいる」と…!!
「マジで?!離婚を決心したんじゃ無くて思いとどまったの?!」
どの記事かは不明なんですが、”愚痴のはけ口”みたいなブログが人の心を動かす事もあるのか…と改めて情報発信のやりがいを感じました。
確かに、たまに「バリ+離婚」あたりの検索ワードを入力すると自分のブログが出てきてゲンナリしますわ…たまにね…。
という事で、ブログを書くモチベーションも上がった所で久々のタイトルがこんなので申し訳ないですが。
私、病み上がりです…。
ここ一年弱、日本で出稼ぎをしている旦那が現在帰国中なんですけども、これ毎度の事で覚悟はしてたんですけども…
久々の高熱+頭痛+嘔吐で寝込んでいました。
因みに病気がちな体質では決してなく、前回の体調不良は私達が日本に一時帰国した6月某日、成田空港で旦那と再会した直後から喉の痛みが始まり、コムスメンが行きたがっていたディズニーランドには行けず、その代わりが蒜山のジョイフルパークになったり…。
さらにさかのぼるその前の体調不良の時もやはり、旦那が日本から休暇で帰って来ていた年末年始の時でした。
その前も…実はその前も…例外ほぼ無しです。
もう旦那もさすがにその件に気付いていて、
「何で俺が帰って来たら毎回寝込むねん!!」
とちょっと不機嫌そうに言われましたが…
「きっと旦那が帰って来てホッとするからじゃない?」
と、一応苦しまぎれの言い訳をしていますが、こういうやりとりをかれこれ7〜8回位再会の度に繰り返しています。
恐る恐るドクターに聞いてみても笑いながら「生活リズムが変わるからじゃない??」と言われたり、
友達には「やっぱりストレスなんじゃない」と言われたけれど、
(Googleドクターによるとこういう人結構多いらしいですが、、)
はっきりとした原因はまだ不明、ただ分かっているのは旦那に会うと必ず体調不良になるという事です。
今後もこの関係が続く限り、”私の体調不良の法則”の原因についての究明を進めたいと思っています。
インスタでは紹介済みなんですが、
病み上がりの景気づけに、最近はまっている”ふわふわカキ氷”を食べに行ってきました。
盛り方も可愛いのです♪♪
まぁ食べ進めていくと途中から工事現場のようになりますが…。
サイズも大きくてGiveUp!!
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